投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2017年 3月12日(日)09時05分58秒 通報
この一念三千という法理は、天台が「法華経の哲理」に基づいて体系づけたものです。
先にも述べましたが、
一念とは生命それ自体のことで、
一念の「一」とは決して数量的な「一つ」という意味ではありません。
中道法性といって、肉体も精神も、因果も有情も非情も、すべてを包含した
生命の全体を「一」といい、その生命を「一念」といったのです。
天台はその一念を
「十界・十界互具(百界)・十如是(百界千如)・三世間(三千世間)」
という範ちゅうで説きました。
天台はこの一念三千を把握するために
「単に〝言葉〟だけではなく、自身の生命に宇宙大の自我を実感することが必要である」
と考え、自身の生命を「内観」することを力説しました。
これが観念観法ということです。
つまり、法華経を根本として自身の生命を深く思索することが、
天台における仏道修行の要諦だったのです。
だから天台教学は哲学的な思考や考えが中心であり、これによって悟る
一念三千の法門も、しょせんは理論の範囲だけでした。
これを天台の「理の一念三千」といいます。
しかし、この理の一念三千の法門では、瞑想家や評論家にとっては
良いかもしれませんが、万人の力強い実践の哲理とはなりません。
大聖人は末法の世において
「法華経が〝全民衆救済〟を本義としている以上、
これ(観念観法)に踏みとどまることは仏法者としては許されない」
と認識し、また自覚していたのではないでしょうか。