師弟不二ARCHIVE

負けた裁判は教えない体質② 「樽沢道広“人違い”訴訟」

投稿者:皆本 投稿日:2016年 9月16日(金)19時29分42秒   通報
“学会本部の負けた裁判は教えない体質”の事例で次に思い浮かんだのが
「樽沢道広“人違い”名誉毀損訴訟」。

この事件に関して、最も詳しく客観的に報じた記事があるのが、乙骨氏のforum21。
(“乙骨だから引用してはダメ”なんていうレッテル貼りの批判はよしてくださいね。
あの柳原氏ですら宿敵「赤旗」の書いていることを信用して引用することが
あるのですから・・・笑)

「東京地裁―日蓮正宗僧侶への誹謗中傷記事で創価学会による名誉毀損を認定」
http://www.forum21.jp/2006/04/post_18.htm

……………………………
 問題となったのは平成16年2月13日付「聖教新聞」掲載の「大石寺は悪鬼魔民の栖」とのタイ
トルのつけられた「正義と勝利の座談会」。同記事で秋谷会長、青木理事長、原田副理事長以下
の首脳幹部は、平成6年(実際は平成7年で「聖教新聞」の誤記)に行われた本妙坊信徒の葬儀の
席上、樽澤住職が戒名料200万円を強要したとして、「樽沢道広 葬儀で開口一番“戒名に200万
円出せ﨟と強要」の見出しのもと、次のように樽澤住職を誹謗したのだった。

 「日顕宗は末寺も大石寺も、こんなろくでなしの坊主だらけだ。本妙坊の樽沢道広も強欲のクソ坊主で有名だ。」
 「卑しい“商売根性﨟丸出しのやつだな」
 「『ボッタクリ』そのものだ」
 「『法を食らう餓鬼』そのものだな」

 だが樽澤住職が本妙坊の住職に就任したのは平成11年5月であり、平成6年(実際は7年)の
葬儀当時、樽澤住職は本妙坊とは無関係であり、葬儀にもまったくかかわっていなかった。

 要するに「聖教新聞」の記事は、樽澤住職にとってまったくの事実無根のデマ。いまはやりの
言葉で言えば「ガセネタ」だったのである。

 そこで樽澤住職は、平成16年3月、記事は名誉毀損であり、重大な人権侵害にあたるとして、
東京地裁に前記の名誉毀損に基づく損害賠償と謝罪広告を求める訴訟を提起したのだった。
 (中略)
 東京地裁民事18部は、記事は原告をして「不当に高額な戒名料を要求したりする、欲深い卑しい
人間であるとの印象を」読者にもたせることは明らかであり、「原告の社会的評価を低下させ、
その名誉を毀損する」と名誉毀損性を認定。

 宗教的論争・論評であり樽澤住職個人を攻撃するものではないとする被告の主張にも理由がなく、
記事の真実性や真実相当性についても「その重要な部分について真実であることの証明はなく、
また、被告らにはこれを真実と信じたことについて相当の理由もないから、被告秋谷らが本件各発言
をし、被告創価学会が本件記事を新聞紙上に掲載し、同新聞を頒布した行為は、原告に対する名誉毀
損として不法行為を構成する」として、被告全員の不法行為責任を認定し、原告の樽澤住職に80万円
の損害賠償を支払うよう命じた。
……………………………
(※この地裁判決が下ったのは、平成18年3月13日です)

「聖教新聞」の「正義と勝利の座談会」で、秋谷栄之助会長、青木亨理事長、原田稔副理事長、奥山
義朗副会長、杉山保青年部長、弓谷照彦男子部長というこれ以上ない当時の最高幹部が登場して
大々的に報じた、大石寺坊主の悪行糾弾であったが、これがなんと“人違い”だったというお粗末さ。

弁解の余地はなく控訴もせず、敗訴が確定しました。この敗訴した裁判について、学会本部は
一切、学会員に知らせませんでした。

京都乃銀鬼さんが「創価班(広宣部)が法華講に、学会側敗訴の事実を告げられ、恥じをかいた出来事
は過去には幾度もあった」と述べていますが、先の「コーヒーカップ遺骨訴訟」とか、この「樽沢道
広“人違い”訴訟」はその中の一つです。

敗訴確定後、アングラではこんな言い訳が流れたようです。

「本妙坊の檀家だった佐野章さんの証言に基づいた学会幹部の発言であったが、樽澤住職が本妙坊の
住職に就任した時期が、佐野さんの証言とは食い違っていたために、名誉毀損性を認定されてしまっ
たのである。つまり、佐野さんの“記憶違い”という瑕疵(かし)が原因で敗訴となったが、否定され
たのは『樽澤住職』の部分であり、証言内容が全て否定されたわけではない。」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13141459903

責任を証言者になすりつけようとする見苦しい言い逃れと言うほかありませんね。一番大きなの責任が、
記事を書いた聖教の記者と、記者のミスをスルーしてしまったデスクの上司にあるのは明らかです。

聖教本紙の「正義と勝利の座談会」を担当したのが、例のT治一派。記事を書いたのは、後に地方に
島流しとなるH松という記者。上司のデスクはT治本人でした。この一派が、「第三文明」別冊等の
取材にかこつけて、長年にわたり、同社に毎月7、80万円もの飲み食い代等をたかっていたことが
判明して大問題になったのも、同じ平成18年3月頃でした。こんな乱れた連中のやることですから、
こんなあり得ない仕事上のミスを犯すのも当然といえば当然です。

実は、この学会敗訴判決は、創価学会という法人が原告もしくは被告になった裁判で初めて負けた
裁判でした。それまで、学会員個人が原告もしくは被告になった裁判で負けたことはありましたが、
創価学会自体は負けたことがなかったのです。

こんな巨額の金銭問題を起こし、裁判敗訴して創価学会の顔に泥を塗ったT治一派ですが、お咎めなし。
それどころか、その後、T治は編集局長、副会長に抜擢され、この一味から全国男子部長、全国学生
部長をはじめ、青年部幹部が続々と登用され、なんと大チョンボを犯したH松記者までもが男子部教学
部長?に抜擢されるというトンデモ人事が行われたのです。聖教の暗黒時代の始まりでした。

聖教にパワハラの嵐が吹き荒れ、T治一派にあらずば人にあらずという時代だったと言います。
しかし、天網恢々疎にして漏らさず。悪事は必ず裁かれるもので、この一派の“栄華”も3年ほど
で終わり、T治以下、聖教にいた15人は打ち首、獄門、遠島等の処分になったのでした
(たまたま本部に移っていた連中は難を逃れ、この一派の残党として今も生き延びています)。

この一派が一掃された後、先生から次のようなお言葉があったそうです。

「ぎりぎりのところで、聖教城が守られたんだな。
上が戦わないからこんなことになるんだ。だれが
戦ったんだ。ほめてあげて」

今も構図は同じです。上が戦わないから悪がはびこり、下が苦しむのです。

この聖教に巣くった組織内組織・T治一派の追放劇は、いま進行している四人組一掃の
先駆をなすものとして、後世高く評価されるものと思います。

(「負けた裁判は教えない体質」③へ、つづく)