投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 9月 7日(水)12時45分3秒 通報
〝聖愚問答抄〟のなかで「愚人」が
「権教や権宗を信じている人は多いが、この法華経の宗を信じる人は少ない。
どうして多数を捨てて少数に付くのか(趣意)」(御書四九三頁)との質問に対して、
大聖人は「聖人」を通してこう訴えました。それを最後に紹介して終わりたいと思います。
――かならずしも数が多いから尊くて、少ないから卑しいのではない。
賢善の人はまれであり、愚悪の者は多い。
麒麟(きりん)や鸞鳳(らんほう)は禽獣(きんじゅう)のなかでもめずらしいものである。
しかし、これは非常に少ない。
牛・羊・烏・鳩は鳥獣のなかでは卑しいものである。しかし、これは非常に多い。
多数が尊く少数が卑しいならば、麒麟を捨てて牛や羊をとり、鸞鳳をさしおいて烏や鳩をとるべきであろうか。(中抜)
聖人の出現はまれで千年に一度であり、賢人は五百年に一度である。(中抜)
世間、出世間(仏法の世界)ともに、善人は少なく悪人が多いことは眼前の事実である。
したがってどうして、いちがいに少ないからといって卑しみ、多いからといって重要とするのか。
土沙は多いけれども米穀はまれである。
木の皮は充満しているけれども布絹はわずかである。
あなたはただ正理を第一とすべきであり、ことに人数の多いことを根本として判断してはならない(同頁)――と。
池田先生はこの御文を通して「この仰せのとおり、学会は正しき道理を第一として、
大聖人の仏法を世界に弘めた。この歴史はあまりにも尊い」(池田大作全集七十七巻)と宣言しています。
― おわり ―