投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 6月27日(月)15時30分29秒   通報
仏界の境涯を涌現するための〝因縁〟を明かした十法界明因果抄には

「仏界とは、菩薩の位において〝四弘誓願〟を発することをもって戒となす(通解)」
(御書四三四頁)とあります。

四弘誓願とは、

①一切衆生を悟りの道に入らせ、一切衆生を救うことを誓う。
②一切の煩悩を断とうと誓う。
③仏の教えをすべて学びとろうと誓う。
④仏道修行において無上の悟りに至ろうと誓う、ことです。

これは爾前教で〝四弘誓願〟という菩薩戒を持った結果として仏果が示された文ですが、

法華経では一大事因縁を明かし「開示悟入」を説いて、衆生の〝心〟に本来、仏界が具わっていることを示し、
自分自身の仏性を悟ることによって〝即身成仏〟することを明確にしているのです。

つまり、

目が見えない人は見えないまま仏になり、
耳の聞こえない人は聞こえないまま仏になり、
口でしゃべれない人はしゃべれないまま仏になるということです。

そして、どんな重度の障害を持つ身体であったとしても、
あらゆる形式を超越して「法華経を信ずる強き心」によって成仏できるのです。

大聖人は
「一念に億劫の辛労を尽せば、本来無作の三身念念に起るなり。所謂、南無妙法蓮華経は精進行なり」
(七九〇頁)と訴えています。

この御文は、今現在の心が広宣流布(四弘誓願)のために、努力しぬき、
苦労しぬいていけば、本来、わが身に具わる仏界が必ず涌現する。

広宣流布のために尽力すること自体が南無妙法蓮華経そのものなのだ――と捉えたい。

言い換えれば、

広宣流布は四弘誓願を誓った仏と仏でしか成し得ない大偉業であり、
仏と仏のみがよく理解し、説くことができる大生命哲学なのだと思います。

障害者であれ、健常者であれ、涙も出ないほど苦しくて、苦しくて、
もがき苦しむ日々の連続であったとしても、ただ今・現在「生きている」ということは、

心のどこかで仏法を求め「幸せになりたい」と願っているのではないでしょうか。

その苦しむ人を肩に背負い、支え励まし、蘇生させ、顔を上げて前を見ろと
教えてくれたのは、池田先生であり、学会同志です。

池田先生の心は自身亡きあとのことを考えて〝即身成仏の法門〟を現代に縦横無尽に展開し、
末代の衆生に成仏への方途を説き示し、書き残しているのだと思います。

こう考えれば、かつて妻が言った

「私にとって池田先生の指導は『御書』なのよ。そんなの私の常識」

という言葉も本質を捉えていると思う。