投稿者:赤胴鈴之助 投稿日:2016年 6月21日(火)04時36分23秒
にょせつしゅぎょうと、ふきょうぼさつのじっせん
とうこうしゃ:だいぶつのグリグリのとこ 。
とうこうび:2016ねん 6がつ13にち
しゅぎょうという、ことばは「ほとけのといた、ごとくしゅぎょうする」といういみですが、 にちれんだいしょうにんは、ほけきょうに、とかれるさまざまなことがらや、じゅなんを、わがみでたいけんし 「いちだいのかんじんは、ほけきょう、ほけきょうのしゅぎょうのかんじんは、ふきょうほんにて、そうろうなり」ごしょ1174ぺーじと、うったえます。
そして、ぶつどうしゅぎょうのようを「かんじほんと、ふきょうほん」において、みんしゅうの、こうふくのために、すべてのたたかいに、しょうりし、とうといしょうがいをおえました。
かんじほんには、しゃくぶく、ぐきょうのじっせんと「さんるいのごうてきとの、とうそう」が、えがかれ、ふきょうほんには〝ふきょうぼさつ〟という 、ぐたいてきな、じんかくの、こうどうをとおして、「ぞうじょうまんとの、とうそう」が、えがかれています。
だいしょうにんにおける、しゃくぶくぐきょうの、じっせんとさんるいのごうてきとの、とうそうは、みなさんよくごぞんじだと、おもうので、 ほけきょう「じょうふきょうぼさつほん、だい20、※つぎからふきょうほん」にえがかれている、ふきょうほんのふるまいをとおして、 まっぽうの、ぶつどうしゅぎょうを、かんがえていきたいとおもいます。
ふきょうほんのせっていは、さいしょの、いおんのうぶつ、(どうめいのほとけが2まんおく、あらわれた)が、めつどし、しょうほうじだいが、おわったあとの、ぞうぼうじだいで、 ぞうじょうまんの、びくたちがおおきなせいりょくをもっていた、ときにふきょうぼさつが、あらわれたととかれています。
ぞうぼうという、じだいようそうは、ほとけのおしえが、けいがいかし、ちからをうしないつつあるときで、しかもぞうじょうまんの、びくたちがせいりょくをほこっている、よのなかです。
このようなよ、(ぞうぼう)では、まっぽうほどの、あくせではないにせよ、
かならず、きせいのぶっきょうせいりょく、ぞうじょうまんがほけきょうを、じっせんしている、ひとびとをはくがいする、こうずがそんざいするものです。
ふきょうぼさつの、さいだいのとくちょうは、きょうてんの、どくじゅという、でんとうてきな、しゅぎょうはもちいず、
「わたしは、ふかくあなたがたをうやまい、けっして、かろんじません。なぜかといえば、 あなたがたは、みな、ぼさつどうをぎょうじて、じょうぶつできるからです」とのことばをかたりながら、 ひたすら、ひとびとをれいはいし、さんたんして、いったことにあります。
つまり、ふきょうぼさつはばんにんがじょうぶつできることをせんげんし、
いかなるじょうきょうであっても、けっして、たしゃをけいべつしないことを、ちかったぼさつなのです。
かれの、かたったことばは、
かんぶんで、24もじ、(がじんぎょうにょとう、ふかんきょうまん。しょいしゃが、にょとうかいぎょうぼさつどう、とうとくさぶつ)であらわされることから、
「24もじのほけきょう」とも「りゃくほけきょう」ともよばれています。
――2
ふきょうぼさつが、でんとうてきな、しゅぎょうほうである、きょうてん、どくじゅをもちいず、らいはいぎょうに、てっしぬいたということは、
きょうてんの、ひょうめんてきないみに、とらわれることなく、きょうてんの、しんずいをちょくせつ、あいてにしめすという、かくしんてきな、しゅほうともいえます。
また、ひとをらいはいするというこういは、〝ばんにんのせいめいに、ぶっしょうがないざいする〟ほうりを、 かんねんてき・ちゅうしょうてきに、かたるのではなく、げんじつのこうどうによって、じっせんしているといえます。
しかし、ぞうじょうまんのびく、びくに、またざいけのだんじょは、このふきょうぼさつのことばをうけいれず、
はんぱつして「じょうもくがしゃく、にくたいてきぼうりょく・あっくめり、げんろんのぼうりょく」という、はくがいをくわえました。
ふきょうほんの、こうはん・げじゅでは、このはくがいを、くわえたひとびとについて
「かれらはそれまでに、けいせいされてきた、けいしきてきなきょうぎや、ことばにしゅうちゃくし、とらわれていた」としるされています。
それにたいして、きせいかんねんに、とらわれない、ふきょうぼさつは、ばんにんに、ぶっしょうが、ないざいすることを 「らいはい・さんたん」というぐたいてきな、こうどうによって、あいてにりかいさせようとしたのです。
いったい、ほけきょうさくせいしゃは、ふきょうぼさつの、こうどうをとおして、みらいのでしに、なにをつたえようとしたのでしょうか。
かんがえてみれば、ほとけのおしえがけいがいかし、しかもぞうじょうまんが、せいりょくをほこっている、ぞうぼうじだいに、
ふきょうぼさつの、かんねんにとらわれない、しゅぎょうほうをもちいれば、きょうてんのけんいに、しゅうちゃくするせいりょくからは、
きょうれつな、はんぱつやはくがいがあるのは、むしろとうぜんといえます。
しかし、ふきょうぼさつは、あらゆる、はくがいをたえしのび、なんをうけるという、「ぎゃくえん」のほうほうによって、
ひとびとを、さいしゅうてきに、きゅうさいしていったのです。
これは、じゅうらいの、でんとうてきな、きゅうさいほうとは、たいきょくにあるものです。
そもそも、ほけきょうにおける、きほんてきなきゅうさいほうほうは、〝ぎゃくえん〟ではなく、〝じゅんえん〟です。
つまり、あいての、きこん、のうりょくや、しこうせいに、おうじてほうをとき、はくがいをまねくことを、きょくりょく、かいひするものです。
しゃくそんも、おおくのはくがいに、あいましたが、そのきょうけほうほうの、きほんは、あいてのきこんにおうじてなされていました。
しかし、ふきょうぼさつが、じっせんしたほうほうは、あいてのきこんや、しこうせいを、はいりょせず、はくがいをおそれず、
むしろ、はくがいをとおして、あいてに、「ぶつえんをむすばせる」という、ぎゃくえんのしゅほうを、もちいたのです。
ふきょうほんには「ふきょうぼさつは、しゃくそんのかこせにおける、すがたである」としるされていますが、
やはり、ふきょうぼさつのこうどうは、しゃくそんの、けどうほうとは、たいきょくにあるものです。
これらのことから、ふきょうぼさつで、とかれている、ぶつどうしゅぎょうは、ほけきょうぜんたいの、なかでは、きわめて、いしつなものといえます。
――3
てんだいたいしも、このふきょうぼさつと、しゃくそんのたいひに、ちゃくもくし
「もとすでに、ぜんあるは、しゃか、しょうをもってこれを、しょうごし、もといまだ、ぜんあらざるは、ふきょう、だいをもって、これをごうどくす」
こくやく、いっさいきょう461ぺーじ
とほっけもんぐのなかでのべています。
つまり、しゃくそんのけどうは、もとからぜんこんをもっている、(ほんいうぜん)、きこんの、たかいしゅじょうを、すくうために、
かくじんの、ぜんこんを、ようごしながら、しょうほうをとくのにたいし、
ふきょうのけどうは、なんら、ぜんこんをもたない、(ほんみうぜん)、おとったしゅじょうをきゅうさいするために、
ひとびとの、はんぱつにかかわることなく、たいほうをといていくといういみです。
そして、てんだいは、ふきょうがとく、ほうが、しゃくそんの、とくほうよりも、いだいなきょうほうで、あるとけつろんしています。
この〝しゃかぶっぽうの、げんかいをこえた、たいほうを、ふきょうぼさつが、とき、ぐつうする〟という、てんだいのりかいと、けんしきは、
みらいへの、じゅうだいなよけんを、しめしているとおもいます。
だいしょうにんも、、「しゃくそん、わが、いんいのしょぎょうを、ひきのせて、まっぽうのはじめを、かんれいしたもう。
ふきょうぼさつ、すでに、ほけきょうのために、じょうもくをこうむりて・・・」ごしょ1371ぺーじとのべられています。
これらを、かんがえあわせれば、しゃくそんの、かこせの、じっせんというかたちを、もちいながら、
じつは、みらいにしゅつげんすべき、ほけきょうのぎょうじゃの、じっせんをしめすところに、
ほけきょう、さくせいしゃ、ふきょうほんの、しんいがあるのではないかとおもいます。
なぜかというと、ふきょうほんは、ほけきょうさくせいしゃが、みずからじっせんしたものではなく、
みらいの、まっぽうに、とうじょうするじゆうのぼさつの、しゅぎょうのありかたをさししめしたものであると、かんがえられるからです。
ほけきょうぜんたいをみて、じゆうのぼさつにたいして、ふぞくがとかれた「じんりきほん」のちょくぜんに、
ふきょうほんが、おかれているのは、ふきょうぼさつも、じゆうのぼさつであり、まっぽうに、みょうほうをぐつうする、じゆうのぼさつのじっせん、
ぶつどうしゅぎょうのありかたを、ふきょうぼさつという、ぐたいてきなじんかくをとおして、ときしめしたのが、ふきょうほんなのだとおもいます。
こうかんがえれば、だいしょうにんの
「いちだいのかんじんは、ほけきょう、ほけきょうのしゅぎょうの、かんじんはふきょうほんにて、そうろうなり」ごしょ1174ぺーじということばが、せんめいに、りかいできるし、
だいしょうにんが、けんぶつみらいきでひょうめいしている
「いおんのうぶつの、ぞうぼうのとき、ふきょうぼさつ、『がじんきょう』とうの、24じをもって、かのどに、こうせんるふし、
いっこくの、じょうもくとうの、だいなんをまねきしがごとし。
かの24じと、このごじと、そのご、ことなりといえども、そのい、これおなじ。
かのぞうぼうのすえと、これのまっぽうのはじめと、まったくおなじ。
かのふきょうぼさつは、しょずいきのひと、にちれんは、みょうじのぼんぷなり」ごしょ507ぺーじ
ということばも、めいかくになります。
つまり、こんげんのほうである、なむみょうほうれんげきょうを、ばんにんにときしめした、だいしょうにんは、
じしんの、じっせんと、ふきょうぼさつのじっせんが、がっちしていることを、じょうきもん、(けんぶつみらいき)で、ひょうめいしたということです。
――4
まず、ふきょうぼさつのといた「24もじの、ほけきょう」と、だいしょうにんがぐつうした、「みょうほうごじ、なむみょうほうれんげきょう」とは、
そのひょうげんは、ことなれども、いっさいしゅじょうの、じょうぶつをじつげんしようとする、こころに、おいてはおなじです。
またふきょうの「ぞうぼうのすえ」と、だいしょうにんの「まっぽうのはじめ」というじだいは、ともに、はくがいがふきあれる、あくせにおいても、おなじです。
さらにふきょうは「しょずいきのひと」、だいしょうにんは「みょうじのぼんぷ」として、ともにひくいくらいの、そんざいのために、ひとびとにけいべつされ、
めりされながら、はくがいをたえしのんで、ばんにんのじょうぶつの、みちをきりひらいていく、じっせんしゃであるというのもおなじです。
これらみっつのふごうしたじじつから、
ふきょうほんは、そのひと、じっせんしゃこそが、しんじつの、ほけきょうのぎょうじゃであることを、しめしたものだとかんがえます。
いけだせんせいも、ふきょうほんをとおして
「そうかがっかいも、そうです。みんしゅうべっしの、にほんのしゃかいから、いつもバカにされてきた。
『びんぼうにんと、びょうにんのあつまり』とけいべつする、にんげんもおおかった。
しかし、とだせんせいは、『びんぼうにんと、びょうにんをすくうのが、ほんとうのしゅうきょうである』と、ししくされた。
かねもうけのしゅうきょうは、かねもちだけをたいせつにする。びんぼうにんなんかあいてにしません。いわんやびょうにんをあつめて、なにになりますか。
びょういんを、ひらくわけではなし・・・。
しんじつの、ぶっぽうは、くるしんでいるひとの、ためにあるのです。
いちばん、くるしんでいるひとを、いちばんこうふくにするための、ぶっぽうなのです。そうではないだろうか。
この、すうこうな、こころのわからない、にんげんからは、われわれは『つねに、けいべつされて』きました。
それでも、あいてがだれであれ、われわれは、なやめるひとがいれば、とんでいって、めんどうをみてきた。
だきかかえながら、『あなたのなかの、ぶっかいをひらけば、かならずこうふくになれるのだ』とおしえ、はげまして、みょうほうに、めざめさせていったのです。
『ひとりのひと』を、みをこにして、そだて、せわしてきた。
まさに『つねにひとを、かろんじなかった、ぼさつ』です」ほけきょうの、ちえごかん105ぺーじ
と、そうそうきの「がっかいだましい」を、うったえています。
――5
さて、ふきょうぼさつを、れいしょうし
「じょうもくがしゃく、(にくたいてきぼうりょく)」と「あっくめり、(げんろんのぼうりょく)」のはくがいを、くわえた、ぞうじょうまんは、どうなったのでしょうか。
こんどは、それをてみていきたいと、おもいます。
ふきょうぼさつは、てっていして、ひぼうりょくの、とうそうをてんかいし、ただ24もじの、ほけきょうを、ばんにんに、とく、げんろんせんを、てんかいしました。
しかし、そんな、ふきょうのじっせんをみて、ぞうじょうまんは、あっくめりするのはもちろんのこと、
つえや、ぼうでうったり、かわらのかけらや、いしをなげつけて、はくがいするにんげんもいました。
たとえば、ごしょや、いけだせんせいのしどうどおりに、じっせんして、がっかいかんぶ・そしきから、はくがいされたかいいんに、おきかえれば、
じょうもくがしゃく、にくたいてきぼうりょくは、
やくしょくを、かいにんされたり、かつどうをていしされたり、かいいんと、せっしょくきんしとか、かいかんりでいりきんしなど、
じんけんしんがいとも、いえる、がいてきぼうりょくだと、とらえることもかのうです。
また、あっくめり、(げんろんのぼうりょく)は、
そのひとを、こりつさせるために、うそのつくりばなしや、いかにそのひとが、あくとう、ぶつてきであるかという、
いんしょうそうさのための、ばりばとうという、げんろんのぼうりょくに、おきかえることもできます。
いずれにしても、このような、ふきょうのにんたいは、なんねんもつづきます。
しかし、どんなに、わるくちをいわれようと、
たたかれようと、ふきょうぼさつは、24もじのほけきょうを、げしゅしてあるいたのです。
いけだせんせいは
「『にんにく』のしゅぎょうだ。ほとけのことを、『のうにん、よくしのぶ』というが、にんたい、しきれるかどうかできまる」
ほけきょうのちえ、かん112ぺーじと、ぶつどうしゅぎょうの、こころがまえをおしえています。
そんな、ふきょうぼさつを、かろんじ、はくがいした、ぞうじょうまんは、そのつみによって、200おくこうのあいだ、ぶっぽうを、きくこともできず、
さらに、せんこうものあいだ、あびじごくの、くのうをうけることに、なったと、ふきょうほんには、とかれています。
――6
はなしは、すこしそれますが、ほけきょうのえざに、さんしゅうしたようそうを、じょぼんからみていくと、
さんしゅうしたのは、なにも、にんげんだけではなく、しょてんを、だいひょうする、たいしゃくてんや、ぼんてん、
とうそうを、てんかいするきじんや、ちょうるいのおう、またくうちゅうをひこうするきじんや、もりのかみなど、
まるで、しんらばんしょうを、たいしょうとしているかのような、ようそうです。
いいかえれば、
ちきゅうの、あらゆるせいめいたいや、そのはたらきが、えざのぶたいであったととらえることも、かのうです。
そのた、たしゅ、たような、せいめいたいのかたまりである、ちきゅうじょうで
「ぶっぽうを、きくことができない」じょうたいのせいめいたいを、そうぞうすると、
どんないきものが、うかびあがってくるでしょうか。
たとえば、
しんかいにすむ、かいようせいぶつなどは、ぜったいに、ぶっぽうをきくことは、できないし、 アフリカのサバンナにすむ、どうしょくぶつもぜったいに、ぶっぽうをきくことはできません。
しかも、それらのせいめいたいは、じゃくにくきょうしょくの、せかいにいき、いつおそわれて、たべられるかもしれないと、
きょうふにおびえ、つねにきけんに、さらされて、いきているといえます。
また、ゴキブリやネズミなどは、ほとんどのにんげんから、いみきらわれるそんざいで、
たとえ、ぶっぽうのはなしをする、いえにすみついていても、そこにすむ、にんげんにみつかればそく、ころされる、うんめいにあるせいめいたいです。
もし、そんなせいめいたいで、しょうじょうよよ、じぶんがうまれてくると、そうぞうしただけで、もうぜっくし、きょうふにさいなまれます。
さらに、そんなじょうたいが、200おくこうのあいだ、つづくとなると、もうたちなおれません。ぜつぼうです・・・。
さらに、これでおわりではなく、つぎにせんこうものあいだ、あびじごくの、くのうをうけるのです。
ただこれは、あくまでも「たとえ」のはなしです。
ようするに、ふきょうぼさつを、はくがいしたぞうじょうまんは、それくらい、ひさんな「くるしみ」を、うけるということです。
だいしょうにんは「ふきょうぼさつをののしり、うったひとは、はじめこそそうだったが、
のちに、しんぷく、ずいじゅうして、ふきょうぼさつを、あおぎとうとぶことは、しょてんが、たいしゃくてんをうやまい、われらが、にってん、がってんを、いふするのとどうようであった。
しかし、はじめ、ひぼうした、だいじゅうざいがきえず、せんこうのあいだ、だいあびじごくには、はいってくるしみ、
200おくこうのあいだ、ぶっぽうそうの、さんぽうのなをきくこともできなかった。しゅい」ごしょ1125ページ
とのべています。
ましてや、こころをあらためない、ぞうじょうまんほうぼうしゃのつみは、そうぞうもできません。
――7
では、そのぞうじょうまんは、もうじょうぶつできないのか・・・。
ふきょうほんによれば、ふきょうぼさつを、はくがいしたつみによって、いったんは、じごくのくるしみにおちますが、
そのつみがおわったあと、ふたたび、ふきょうぼさつに、であい、きょうけをじょうじゅし、ほとけのさとりを、えることができたととかれています。
ふきょうぼさつを、かろんじた、ぞうじょうまんたちは、
ふきょうぼさつの、くどくである、いだいなじんつうりき、えんぜつのちから、ぜんじょうのちからを、まのあたりにし、とくないようをきいて、
ふきょうぼさつの、じょうじゅした、いだいなせいめいへんかくの、じじつとしそうのたくえつさにふれました。
そして、かれらはじしんのふとくをじかくし、くいあらため、ふきょうぼさつに、しんふし、ずいじゅうしたのです。
ふきょうほんに、とかれているのは、はくがいしたものは、そのつみによって、くるしみの「むくい」をうけますが、
それをうけおわれば、ぶっぽうにえんしたことにより、さいしゅうてきには、きゅうさいされるという「ぎゃくえん」の、きゅうさいげんりがしめされているのです。
いけだせんせいは、ぞうじょうまんのほんしつと、じぶんじしんが、ぞうじょうまんにならないための、けいこくとして、
つぎのように、かたっています。
「かれら、ぞうじょうまんは、はぶりがよかった。おおきなせいりょくを、もっていた。
その『ちから』や『ちい』を、たのんで、いよいよ、ぞうじょうまんになって、いたのでしょう。
けんい、けんりょく、けいざいりょく、わんりょく、ちいりょく、めいせい、さいのう、ちしき・・・・にんげん、なにかの『ちから』を、たのんでいるうちは、なかなかけんきょになれない。
すべてをうしなってから、はじめて『きくみみ』をもつことが、あまりにもおおい。
にんげんのひげきです。
ほとんどの、にんげんが、じぶんじしんの、まんしんでほろびていく。
そうなるまえに、はだかの『にんげんとして』じぶんに、なにがあるのか・・・それをといかけることが、だいじなのです。
いっさいの、きょしょくを、かなぐりすてて」、ほけきょうのちえ、ごかん112ぺーじと。
そしてまた
「ふきょうぼさつは、じょうずな、はなしもしなかった。えらそうな、ようすをみせることもなかった。
ただ、ぐちょくなまでに『げしゅ』を、してあるきまわった。
その、こうどうにこそ、さんぜにわたって『ほけきょう』が、みゃくどうしているのです。
ようするに、がっかいいんです。
さいぜんせんの、がっかいのどうしこそが、ふきょうぼさつなのです。
みなから、そんけいされて、じぶんがえらいとおもっているのは、『ぞうじょうまんのししゅう』です。
かんぶにしても、だれにしても、『そうかがっかい』という、ふしぎな、ぶつちょくのだんたいに、ちからがあるからこそ、
かつやくもできるし、ものごともすすむ。
それを、じぶんのちからのように、さっかくするところに、てんらくがはじまり、だらくがはじまる。・・・・なかぬき、
じぶんじしんが、ふきょうぼさつなんだ、なむみょうほうれんげきょうの、とうたいなんだときめて、『ふきょう』のしゅぎょうを、していくことです」
――8
ほけきょうのぎょうじゃの、じっせんをといたふきょうほんは、ほけきょうのせいしんを、めいかくに、しめしているとともに、
そのせいしんは、「いっさいしゅじょうを、けっしてかろんじない」という、ふきょうほんのちかいに、よくあらわれています。
そのじっせんを、つらぬきとおした、ふきょうぼさつのさいだいの、とくちょうは、「ろっこん、しょうじょうと、ざいしょうしょうめつ」という、くどくです。
ふきょうほんの、なかで「ふきょうぼさつの、つみがおわり、(ございひっち)、いのちがおわろうとするとき、
かれは、このきょうを、きいて、ろっこんしょうじょうとなった」と、とかれています。
つまり、はくがいをうけることによって、じしんのざいしょうを、めっすることができたというのです。
しかし、このかいしゃくは、もとになるサンスクリットぼんには、きさいされておらず、あとから、くまらじゅうが、つけくわえたものです。
サンスクリットぼんでは、ふきょうぼさつが、なぜはくがいをうけたのかという
ふきょうじしんに、そくした、ないざいてきな、いぎはあきらかにされていませんでした。
そこで、くまらじゅうは、ふきょうじしんの、ざいごうとむすびつけ、はくがいのほんしつを、よりめいかくにしようと、かんがえたのだとおもいます。
つまり、ふきょうぼさつが、なん、はくがいを、うけたのは、かれじしんの、かこせのゆえであり、
ほけきょうぐつうの、ゆえに、なん、はくがいを、うけたことによって、じしんのざいごうを、しょうめつさせた・・・。
この、くまらじゅうの、かいしゃくによって、はじめて、「なん、はくがいによる、めつざい」という、しゅうきょうてき、いぎがめいじされたのです。
だいしょうにんは、この「ほうなんによる、ざいしょうしょうめつ」の、げんりをさいじゅうし、しました。
じじつ、だいしょうにんが、さどるざいきに、あって「にちれんの、るざい、はくがいは、じしんのざいごうのゆえ、(さどごしょ)」であるとし、
この、ほうなんによって、ざいしょうを、めっすることが、できるとのべています。
にちれんぶっぽうには、じしんのしゅくごうを、ちょくしし、そのごうの、てんかんやこくふくを、とくしそうがありますが、
その、ぜんていには、ふきょうほんに、とかれる、ざいしょうしょうめつの、しそうがあったのです。
――9
だいしょうにんは「たつのくちの、くびのざ」という、だいなんをのりこえ、はいるのちである、さどへ、むかわれるとちゅう、
さどへ、わたるみなとまちとして、さかえていた、てらどまりに、とうちゃくします。
そして、てらどまりから、ときじょうにんに、おくったてがみのなかで、
だいしょうにんが、なんにあうのは、しゅじょうのきこんもしらずに、しゃくぶくしたためである、などなど、さまざま、ひなんするものたちに、たいして、
しゃくぶく、ぐきょうによって、なんにあうことは、ほけきょうのきょうもんどおりであると、うったえ、それらのぎなんを、はしゃくされたうえで
「ほけきょうは、さんぜのしょぶつの、せっぽうのぎしきである。
かこの、いおんのうぶつのときの、ふきょうぼさつのしゅぎょうを、あかしたふきょうほんは、
いまのかんじほんであり、いまのかんじほんは、かこのふきょうほんである。
いまの、かんじほんは、みらいには、かこのふきょうほんとなって、しゅぎょうのもはんとなるであろう。
そのとき、かんじほんを、しんどくした、にちれんは、かこのふきょうぼさつとして、しゃくぶくのもはんとなるであろう、(つうげ)」
ごしょ、953ページと、うったえました。
・・・いま、かんじほんに、とかれる、さんるいのごうてきを、よびおこしたのは、わたし、にちれんである。
それは、かこに、ふきょうぼさつが、たたかった、たたかいを、いま、このみで、じっせんしているのであり、みらいからみるならば、
いまの、わたし、にちれんのたたかいは、ふきょうぼさつと、おなじであるとわかるであろう・・・とは、だいしょうにんのだいかくしんです。
いけだせんせいは
「ぼやっとして、『ほけきょう』を、かみにかいた、28ほんのことと、おもってはならない。
ぶっぽうは、『いま』、『ここの』、ぼんぷの、『げんじつ』のなかに、しかないのです。
この、『いま』のおうていを、『くおん』といい、このおうていを、ひらくことをじょうぶつという。それを、おしえたのが、ほけきょうなのです。・・・・なかぬき、
だいしょうにんは、『ふきょうぼさつは、じつはしゃくそんであった。いま、だいなんにあっている、わたしも、じつはしゃくそんなのだ。ぼとけなのだ』とおしえてくださっているのです。
それがわからないと、ほけきょうを、まなんだことにならないよ」、ほけきょうのちえ、5かん、117ぺーじと、しどうしました。
わたしたちはこのししょうのしどうを、いまこそふかくしさくすべきだとおもいます。
さいごに、ごしょのいっせつを、しるしておわります。
・・・ざいせは、いまにあり、いまは、ざいせなり・・・ ごしょ、916ぺーじ
この、ごきんげんは、わたしたち、いけだもんかせいにとって、えいえんふめつのげんりなのです。
おわり どう118ぺーじと。